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【インタビュー】淡路島 長男三人組 ~前半~

前段

新しい店舗や施設が注目を浴びる淡路島ですが、
実はUターンやずっと淡路島に住まう人たちが様々な面白い動きを始めています。

今回は、なんと同級生・・・!
淡路島出身、今淡路島で活躍する「長男」の3人にお話を伺いました。
なぜ淡路島にいるのか、淡路島だから生まれた縁や運。

彼らのリアルな声には、熱が宿っていました。

【長男その壱:島内随一の名バイヤー 岩鼻商店 岩鼻さん】

島内随一の名バイヤー 岩鼻商店 岩鼻さん

ーー岩鼻さんは、淡路島内で有名な名バイヤーさんですよね。今のお仕事までの経緯を教えてください。

18歳からハイウェイオアシスで20年働いていました。高校卒業するときには就職先がないまま卒業してプー太郎をしていましたね。やりたいこともないし、高校卒業後に学校に行くことは思わなかったですし、危機感もなかったです。当時は就職氷河期で高校の中で一人1社受けられない状況でした。すると、岩鼻家の長男なのに就職もせずにプラプラしているというのが親戚中に広まったんですよ。(笑)そこから、ハイウェイオアシスに親戚の女の子が事務職にいて、それをきっかけにアルバイトとして雇ってもらったんです。それがきっかけですね。

ーーすごい、親戚中が気にかけてくれたって、淡路島っぽいです。おせっかいというか(笑)
そうですね。その時の面接官・店長が今の人生の恩師ですね。入社翌日からスパルタでしたよ。学生時代、部活はまじめにしていたこともあって、それでやめるとかは思わなかったですが。愛想が良かったので、接客業に目覚めたんですよね。

ーー就職したにも関わらず、仕事に熱が入っていったと。
男で社会人やのに親の脛かじらんと自分の保険くらい自分で払えと言われ、バイトからパートになりました。当時はURA(ハイウェイオアシスの運営会社)も社員をとっていなかったので、パートとなって2年働いて、契約社員になり22歳に正社員になった。正社員になる頃にはエンジンがかかってましたね。落ちぶれていた自分でしたが、進学した同級生たちが卒業する年に正社員になって、やっとスタートラインに立ったなという実感がありましたね。26歳には店長になれました。

ーー跡を継ぐ感覚はいつからありましたか?
長男やから実家(田舎)を離れてはいけないという教育を受けていました。長男で生まれてきた宿命を小学生のころにはもう背負わされていた感覚です。おじいちゃんから田舎の長男やから継ぐのはお前やぞ。お前は何代目になるからな。と言い聞かされていたこともあり、淡路島からでて大学や専門学校に行くという選択肢がなかったですね。

ーーハイウェイオアシスはお土産物事業ですよね。だれよりも淡路島の魅力を知り、好きでないと出来ない仕事だと思います。淡路島は好きだったんですか?
いえ、実は元々淡路島がめちゃくちゃ嫌いだったんですよ。島の外に出たかったけど行く場所がなかったからいやいや実家に住んでた。なんでこんなところに産んだんやと思うこともありましたね。

ーー相当な嫌悪感ですね。(笑)それでも、なぜ続けられたのでしょう?
当時は淡路島ブランドも淡路島の玉ねぎが有名なんも知らなかったし、魚も嫌いやし、淡路島牛がおいしいことも知らんかったんですよ。

ーー住んでいると、それが当たり前になりますもんね。
でもオアシスで仕事を始めて、こんなんもあるんや、お客さんこんな肉で喜ぶんや。こんな野菜もあるんや、玉ねぎってこんなに有名やったや、と知るようになって。淡路島っておもろいなと思うようになりましたね。

ーーきっと好奇心旺盛な性格ではないと、できないことだと思います。
たしかに、なんでも楽しめるタイプで前向きですね。仕事を始めて、淡路島のことを知り始めてより淡路島が面白くなっていきました。淡路島ってええとこやねんなあって20歳くらいに、やっと気づきましたね。たまたま淡路島の特産物だけを扱うところに飛び込んだから、きっとこの仕事をしていなかったら気づいていなかったと思います。

ーーアルバイトから始まり、正社員になって、この道20年と。今回独立されましたよね。
そうですね。URAで20年間同じ部署で働き続けています。現在は管理職で店舗を4店舗管理していた。50人以上の組織で働いて、組織についても学んだしやりきったという気持ちになり退社を決意しました。円満退社で社長と握手して、感謝の気持ちだけ持って退職しました。ここまで育ててくれた会社には感謝しかないです。自分の製品をURAに納品に行くのは感慨深いですね。

【長男その弐:アイスから始まるまちづくり ice-up 多田さん】

アイスから始まるまちづくり ice-up 多田さん

ーー最近は有名雑誌への掲載など引っ張りダコの多田さんですが、まずは起業するまでの経緯を教えてください。
高校に卒業するまでは淡路島で過ごして、卒業後は福祉の大学に進学しました。大学卒業後は社会福祉協議会で14年働いて、淡路島に帰ってきてアイスキャンディー屋さんになりました。

ーー淡路島に帰ってくることは、もともと考えていたんですか?
淡路島を多分ずっと好きやったんでしょうね。周りから言われたわけではないですが、ただ家の長男という自覚はありましたね。とりあえず島から出たけど、やりたいことがあって島をでたわけではない。なりたいものが明確にあったことがないんですよ。

ーーそこからなぜ福祉の道へ?
ふと何が向いてるかなと考えた時に、いま住んでるところはおじいちゃんおばあちゃんが多い地域で、小学校の下校中にも近所のおじいちゃんおばあちゃんと話ながら帰ることが多い子だったんですよね、僕。近所のおじいちゃんおばあちゃんと話したり、その人たちの役に立てるようなことをするのが向いてるんちゃうかな、と思い福祉関係に行ってみました。福祉関係を選んでみたら、意外とおもしろくてぴたっとはまりましたね。

ーー福祉の中でも社会協議会を選んだ理由はあったんですか?
原体験が記憶に残っていたので、多世代に関わる仕事がしたかったんです。高齢者だけ・障がい者だけ・子供だけではなく、社協なら広く地域の課題に関わることができるから選びましたね。その中でも、いつか淡路に帰ってきて地域の役に立てたらなと思ってはいました。

ーーなるほど、小さいころの原体験が生きているんですね。多田さんは志筑のあたりで生まれ育ってますよね。
志筑は、そういった多世代のふれあいが普通にある街でした。今も、年末年始は絶対に淡路の実家で家族で過ごす、というのが自分のルールでありますね。淡路島を出てからも、淡路に帰ってきたいな、家族で過ごしたいなという意識はずっとありましたね、たまに帰ってきたら、ええとこやなと思っていました。やっぱり外に出てたから特にそう思います。

ーー大阪から、淡路島に帰ってくるきっかけはあったのでしょうか?
福祉の仕事も楽しいけれど、先がみえたんですよ。このまま大阪で働くより、自分で考えて挑戦した方が良い、淡路でやる方が淡路のためになると思うようになって、帰ってきました。

【長男その参:カナダから淡路島へ 淡路市役所 宇城さん】

カナダから淡路島へ 淡路市役所 宇城さん

ーー宇城さんは、淡路島に帰ってくるつもりでしたか?
小さい頃はずっと外に出たかったですね。そのきっかけが中3の時。一宮町のホームステイ留学制度の機会があり、オーストラリアのパースに行ったんですよ。当時は日本が夏で向こうは真冬で、それが初めての海外。それに衝撃を受けすぎて、こんな世界があるんやと。規模感が全然違う。食べもんも違うし、もっと行ってみたいなと思いました。

ーー海外に行ったことで、外の世界を見てみたくなったんですね。
はい、忘れもしないのですが、その時の添乗員からいろんな話を聞いて、こんな仕事いいなと思ったのが中3の時でした。

ーー将来の夢が中3で見つかったのですか!すごい。
それも、母親が旅行会社で働いていたので、家には旅行のパンフレットがたくさんあったんですよ。高校生に入ってからは、毎年スノボに行っていて、その手配を僕がやっていましたね。ひたすら旅行のパンフレットを見るのが好きでした。高校生の卒業文集に添乗員になると書いていたんですよ。(笑)

ーーそこから、本当に夢を叶えたんですね。
大学3年生の時に、就職を目の前にして、このまま就職しても旅行会社就職できへんな思ったんですよ。そこで、当時リゾートバイトの先輩からワーキングホリデーがあると聞いて、これええやんってなって。海外で経験を積んだら、面接で違うこと話せるかなと思ったのと、カナダのウイスラーという世界一のスキー場があったので、そこにいこ!となり、1年大学を休学行ったのがバンクーバーでした。

ーーバンクーバーではどんなお仕事をしていたんですか?
1年間向こうに行ったのですが、さあ何しようという状態で、仕事を探していたら、たまたまガイドの募集があったんです。ダメもとで受けたらたまたま採用になった。
英語も話せなくて社会人経験もないけど、空港でバイトさせてくれました。

ーー帰国後、旅行会社に就職されたと。
片っ端から旅行会社を受けて、旅行会社に就職しました。そこから3年間、旅行会社で添乗員もしつつ、営業だったので、自分で企画していろんなところ行かせてもらいました。仕事はめっちゃ好きやったんです。でも、リーマンショックをきっかけに一気に旅行需要がなくなって。どこに営業に行っても、こんな時に営業くんな、誰が慰安旅行いくねん。というような状況でした。

ーーではリーマンショックが大きな岐路になったんですね。
はい、それもそうですが、実は岩鼻さんの存在も大きいです。彼が淡路で牛丼・生しらすをやり始めたんですよ。ごっついソワソワしました。こいつ地元ですごいことやりだしたぞと、一気に話題になったんですよ。

ーー島を出てだいぶたっても同年代の存在はどこかで気にかけていたと。
そうですね。ずっと淡路島には帰らなあかんという意識はあったんですが、いつか実家帰らなあかんっていうのが3人の口癖で、長男談義がよくされてましたね。でも2人と違うのは、帰って何かやりたいと思って帰ったわけではないんですよ僕は。でもなんか羨ましいなみたいな気持ちも正直ありましたね。そんな時に母親から、市役所の職員の募集があると連絡があって。それが淡路島に帰るラストチャンスやなと、あかんかったら淡路島と縁がないというふうに諦められるやろなと思って受けました。もしも受からんかったら、俺は大阪で頑張る運命なんやと思っていましたね。

ーー覚悟があったんですね。でも、淡路島へ帰ってきたのはどういう経緯で?
最終面接が旅行会社が忙しい9月のシーズンでした。そのせいで、仕事が空いてる日が1日しかなかったんですよ。で、最終面接やけど、この日に面接が入れへんかったら諦めようと思っていたけど、たまたま面接が入った。最終面接まで行ったら、他の大学生に負けない自信はあったので、無事合格しました。はじめは配属が商工観光課で、今までの仕事が活かせるわ、と思っていた矢先、3ヶ月で異動になりました。平成23年災害があった。農地が崩れて、同期も全員異動でしたね。その苦労を何とか乗り越えて、その後、花みどりフェア事務局に出向しました。前職の経験を活かして、楽しく仕事をさせてもらいましたね。

ーー市役所ならではの経験ですよね。そこで沢山の学びがあったと。
そうですね。自分が今まで1番無縁だった教育関連の仕事をさせてもらったのですが、当時はタブレット端末の環境整備を担当しました。すると、淡路市が最先端の教育環境整備ができていると話題になりました。その影響で、東京で淡路市の事例をプレゼンしたりと、こんな世界があるんや、まだまだ淡路市いけるなと思いましたね。その後、今のまちづくり政策課に配属となって、今の仕事に至ります。まちづくり政策課になった時に、ちょうど淡路が注目され出した。移住者がどんどん増え、自分は偶然ではありますが、いいめぐり合わせにいるなと思います。

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